*** 兎屋
「ねぇ、跡部って、"お蕎麦屋"さん、行ったことある?」
「はぁ?俺様が行ったことないわけねぇだろうが」
そう彼が言ったところで、どうせが跡部家御用達の老舗の料亭みたいなところだとか、専属の蕎麦打ち職人に作らせただとか、そういった類いの話になるのは目に見えている。
「なんだ。行きたいのか?」
「うん。まあね。ちょっと一緒に行ってみたいお店があって。」
一般庶民の代表みたいなわたしと、財閥の跡取りお坊っちゃまが付き合うというのは、何をするにも受け取り方の違いや今までの経験値の違いというものが多々あって、それでも一緒にいられるのは、この跡部景吾という男が、このごく普通庶民のわたしのすることに興味を持っているから?というのはあまりにも自惚れ過ぎ?というよりは、ただ単に適当にあしらわれているだけなのだろうか。
にしても、跡部のすることなすことに、その都度付き合っていたら、感覚がおかしくなってしまいそうで、この前も、まだ中学生のわたしたちが、アシュラン三つ星のレストランに連れて行かれそうになった時は、さすがのわたしも着て行く服だってないし(跡部は何でもいいって言ってくれたけど)、と、とにかくちょっと待って、と言って、それはあまりにも申し訳ないから、と必死で制止しようとするわたしに参ったのか、それはなくなって、「じゃあ、今度からは、お前の好みの店に連れて行けよ」と言ってくれたので、わたしもやれやれとホッとしたのも、つい二ヶ月くらい前の話だ。
それから、とは言っても、跡部も部活や家のこととかで何かと忙しい身のため、数えるほどしか行ってないけれど、わたしの紹介する店へ案外楽しそうについてきてくれるのは、わたしとしても嬉しいところだ。
ということで、最近できた、ちょっと洒落た感じのお蕎麦屋さんに、是非とも連れて行ってみたいと思ったのだ。
「BGMに"JAZZ"がかかっててね、古民家風なんだけど雰囲気はモダンな感じで、素敵なお店なんだ。」
「よし、分かった。じゃ、次の休みにでも行ってみるか。」
「やったー!楽しみ。」
ケッ、幼稚園児みたいにはしゃいでんじゃねぇよ、と言いながらも、表情は嬉しそうで顔は綻んでいる。そんな跡部を見ているとわたしも嬉しくなる。
日曜日、珍しくテニスの試合もなく、約束の時間待ち合わせ場所にきちんと跡部はやってきてくれた。またあの高級車で来るんじゃ、とひやひやしていたけど、ちゃんと歩いてきてくれた。これもわたしとの約束事項。ド派手な登場はもう勘弁してほしい、とにかく普通にしていたい、という、まぁおそらく跡部にとっては我儘であろうわたしの要望にちゃんと応えてくれる彼に、やっぱりわたしも甘えているのだろう。
「よし。行くか。」
と跡部は言って手を繋いでくれる。わたしが案内するとはいえ、自然とエスコートしてくれるところは、さすがお坊っちゃま、と納得せざるを得ない。これだけは、跡部の彼女としての特権だ、とわたしも自然と嬉しくなる。
「何、ニヤニヤしてんだよ。涎が出そうな顔してるぞ。そんなに腹減ってんのか?」
「フフッ。ナイショ!」
でもきっと、半分はわたしの考えてること、分かってる風で、どことなく照れ臭そうな表情が窺えるのは、わたしの気のせいじゃなさそうだ。と、お互いに、握り合う手に自然と力が入る。
坂道を登り、少し住宅地に入りかけた道の角に、その店はあった。跡部はスッと戸を開けてくれて、入るよう促してくれる。ここは、一度両親と一緒に来ているので初めてじゃなかったけど、それにしてもこの懐かしいような雰囲気は何度来ても好きだなぁと思う。
カウンターやテーブル、梁は黒い木で使ってあり、壁は漆喰で落ち着いた雰囲気。二階へは靴を脱いで上がるようになっているのだけど、階段はどこかの廃校になった小学校から持って来たものだと説明書きがしてある。そして、さすが"兎屋"というだけあって、あちこちにウサギをあしらった小物たちが顔を覗かせていてとってもそれが可愛い。
わたしが階段の説明をしていると、じゃあ二階へ上がってみるか、と言って、さすがとても行儀よくきちんと靴を脱いで靴を靴箱へ。階段は小学校というだけあって、ちょっと段差が小さくて上がりにくいけど、それもどことなく風情があっていいなと思う。二階は、跡部の身長じゃちょっと天井が低そうだったけど、座ってしまえば視線はちょうどいい感じ。窓からの光の差し加減も情緒があってなかなか素敵だ。
「フン。なかなかいい店じゃねぇの。」
「でしょ?良かった。跡部に気に入ってもらえるか、ちょっと心配だったんだ。」
オーダーも済ませて、お店の人が持ってきた"そば茶"を二人で飲む。その時、何の前触れもなく跡部がわたしに問いかけた。
「なぁ、そろそろ俺のこと、下の名前で呼んでもいいんじゃね?」
「・・・あー、えっとー、それは......」
なぜかわたしは、跡部のことを下の名前で呼ぶことを躊躇っていた。恥ずかしい、というのが正直なところで、特別深い意味はなかったのだけど、クラスメイトとして知り合って二年、付き合い始めてもうすぐ八ヶ月、気付いた時には自分の中で"跡部"で定着してしまってたので、どうしても下の名前で呼べなかった。
だって、呼び捨てなんて、絶対無理。女の子の友人でさえも、下の名前を呼び捨てにどうしても出来ないわたしが、大好きな人を呼び捨てになんていつになったら出来るだろう、って状態だし、"くん"を付けるのも何となくそういう雰囲気でもないし...ていうか、わたしの中で跡部って"くん"ってイメージじゃなくて...て、これってやっぱり、わたしの単なる我儘でしかないのだろうか...
そうこう考え込んでいると、店員さんがお蕎麦を運んできた。店員さんが去ってから、「ま、どうしても、ってなら、まだいいけどな」と言って、「美味そうじゃねぇか」と割り箸を綺麗に割った。
ごちそうさまでした、とお店を出て、とある庭園へ入ってみたり、CDのお店を覗いたりしながら、わたしは、お蕎麦屋さんで言われたことをずっと考えていた。確かに、付き合い始めた時にも、下の名前で呼ぶように言われたのだけど、慣れるまで待ってほしい、一年経つまでには言えるように頑張るから、みたいなことを言ったことを思い出した。その時も、本当は呼び捨てで言われることにもちょっと抵抗があることや、言うことももちろん苦手なことも伝えた。でも、さすがに、もうすぐ一年になるのに、あまり待たせるのも申し訳ないような気がして、やっぱりそろそろ頑張ってみなきゃいけないかな、とあれこれ思い悩んでいた。
お日さまが傾きかけてきた。並んで歩く二人の影も自然と長く伸びてくる。すると、前方に見慣れた車が止まっているのが目に入ってきた。跡部の迎えの車だ。今日はもう帰らなきゃいけない。
そう。いろいろ考えて、わたしは跡部の懐の深さに甘え過ぎていたのかもしれないと思った。テニス部の部長として、生徒会長として、周りの皆を纏めるのは決して容易なことじゃない。跡部は一見我を強引に通しているように見えるけれど、決してそうじゃなく、周りの意見を取り入れて自分の中で判断した上で指示しているということ。独裁者のような、そういうものでは決してない。だから信頼を得ているのだ。そんな彼が、わたしの言うことだけは無条件に受け入れて聞いてくれる。わたしはそれに甘え過ぎていた。もうそれじゃいけない、甘えてばかりじゃ。だから今度は返す番。わたしが跡部の気持ちに応えなくちゃいけない。勇気を出して。そう。わたしが跡部の気持ちを受け入れてあげなくちゃ。
「迎えだ。送ろう。乗ってけよ。」
やっぱり甘やかされてるんだなぁ、と思ったけど、いやいや、これは跡部のわたしへの気持ちだ、と受け取って、わたしは勇気を振り絞った。
「け、景吾。今日はありがとう。また、時間があったら一緒に行こうね。」
すると、跡部は一瞬目を丸くして驚いてわたしを見つめていたけど、すぐに近づいてきて、わたしは跡部にぎゅうっと抱き締められた。そして、おでこにチュッ。...って、いや、運転手さんとか見てるから―――っ。
でも、跡部、もとい景吾の気持ちが十分に伝わってきた気がして、わたしはもの凄く幸せな気持ちになった。
そして、一緒に景吾の車に乗り込んだ。景吾はちょっと照れ臭そうに「やれば出来るじゃねぇか」と言いながら、私の頭をくしゃっと撫でて、それからは、わたしの家に着くまで、お互い指を絡ませ強く握って離さなかった。
前方には満月。うさぎさんに見守られている気がしたわたしだった。
fin
by ゆかり 2012/01/12
《つぶやきという名のあとがき》
思ったより、時間がかかってしまった作品でした^^;;
とはいっても、実質二週間くらい?でしょうか。
元々は不二くんで、とイメージしていたのだけど、
何となく跡部を連れて行きたくなって、こうなっちゃいました。
「兎屋」さんは、実際に近所にあるお蕎麦屋さんで、
よく家族で行くんです。お気に入りのお店です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
陳謝。
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